1547年 加納口の合戦 織田VS斉藤

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急ですが、日本人って農耕民族だから争い事は向かないとか、他者に気を使って気疲れしてしまうとか言われますよね。果たしてホントにそうなんでしょうか?

日本は、何だかんだ言っても他国に本格的に侵略をされた事が無い国です。ただし、国内の内乱は超してた国でもあり、本当に穏やかな農耕民族なんでしょうか?そんなこんななんで、日本の内乱(主に戦国時代の主要な合戦)を調べてシリーズ化して書いてみますね。第一作目はこちら。

加納口の合戦

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時は1547年(天文十六年)【織田信秀】(織田信長の父親)と【斉藤道三】との『美濃国』(現在の岐阜県あたり)をかけた戦い。

美濃の守護である【土岐頼芸】は1542年に配下の【斉藤道三】によって追放され、お隣のブイブイいわせてるイケイケ大名の【織田信秀】を頼って庇護される。【織田信秀】が時の『足利幕府』に【斉藤道三】の悪逆非道振りをチクったために、『足利幕府』から【斉藤道三】の元に【土岐頼芸】を守護に戻せとの通達がきますが、そんな事を【斉藤道三】が素直に聞くハズもありません。
そもそも【土岐頼芸】が美濃の守護になれたのは、彼の兄である【土岐頼武】を【斉藤道三】と一緒になって越前国(現在の福井県あたり)に追い出したからです。元を辿ったら【土岐頼武】に返すべきなんじゃ…
まっ、それは置いといて【織田信秀】は美濃国に殴り込みをかけます。

戦上手の斉藤道三の前に敗れる織田信秀

1544年に【織田信秀】は【朝倉孝景】と一緒に、美濃国の土岐政権復権を大義に、美濃国の南北から【斉藤道三】を攻め立てます。織田、朝倉両勢力に一気に攻められた斉藤家はたまらずに両家に和睦を申し入れ、この危機を脱します。
しかし、斉藤家をイマイチ信用出来ない織田家、朝倉家の人々は、再び1547年に【土岐頼芸】を焚きつけて美濃国に殴り込みをかけます。今度は美濃国の稲葉山城下に放火しちゃったりしながら織田家、朝倉家の有利に戦は進んでいました。

が、しかし!

日暮れで撤収しようして織田軍の人々が気を抜いた瞬間を【斉藤道三】は見逃しませんでした。イキナリ出撃して来た斉藤軍の面々に態勢を崩された織田軍は、一気に崩壊。織田軍を加納口まで追い、川を渡ろうと混乱していた織田軍をコテンパンに打ちのめします。
織田軍の被害は甚大で【織田信秀】の親戚筋の【織田因幡守】や、信秀の弟の【織田信康】が討ち死にし、一説には五千の兵が討ち死にしたと言われています。

主に活躍した人たち

加納口の合戦で主に活躍した人たちのまとめです。

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織田信秀

応仁の乱以降、守護代であった織田氏が守護の斯波氏の力を凌ぎ、尾張国内で南北に勢力を二分していましたが、結局は清州城の【織田大和守】が力を握りました。その【織田大和守】の三奉行の内の一人であった【織田信秀】は織田本家のみならず尾張国全体を制圧していきます。
【織田信秀】は、元々、織田本家でなく、庶流の人です。なぜ彼が本家を凌ぐ力を手に入れたかというと、彼が治めていた土地に秘密があります。
【織田信秀】は、勝幡城を居城としており、そこは元々商業が発達した地区でもありました。更に、那古野城、古渡城等を次々と押さえ、強い経済的基盤を持ち、主家を凌いだんですね。
彼は尾張国内部の多くを調略や懐柔策で手にしてきました。それは【織田信秀】という存在が睨みをきかせているから、なんとかギリギリで治まっている状態なので、油断すると、スグにあちらこちらで謀反が起こる状態でもありました。しかしながら、彼は、内乱に外征と大忙しの中でも、政治的にも文化的にも中央政権とのコンタクトは怠りません。
京から公家の【山科言継】を招いて連歌会、茶会、蹴鞠大会を開催。大金を投じたおもてなし精神を見せ、更に時の朝廷にも多額の寄付をしまくります。この多額の寄付や公家のおもてなしによって中央政権との強いパイプを作りました。それは、彼が強い経済基盤を持っていた証でもあります。彼は「器用の仁」と称される事も多くありますが、経済基盤をもって中央政権と繋がりを持ったからこそですね。
モチロン武勇にも優れていましたが、「美濃のマムシ」と称された【斉藤道三】とは相性が悪かったのか、どうしても勝つことが出来ませんでした。
庶流でありながら主家の本家を凌ぎ、自力で大名へと駆け上がった【織田信秀】ですが、「器用の仁」と称されたのは、どこか憎めない人柄だったのかもしれませんね。

斉藤道三

僧侶、油売りから美濃国を有するまでのし上がった日本を代表する下剋上の典型的人物。「美濃のマムシ」と称され、「梟雄」とは彼の為にある言葉。次々と名家を乗っ取り、名前を変えたため、多くの名前が伝わる。松波庄五郎→長井規秀→斉藤利政→斉藤道三とチョコチョコ変わっている上に、【松波庄五郎】は、彼の父親では?との説もあり現代でも不明な点が数多くある人物で、美濃の国盗りは彼の父親との親子二代に渡るもであるとの説もあります。
そんなハッキリしない氏素性はともかく、利用できる人間に取り入っては、その心を操り自分の地位を上げ、邪魔になったらハイ、サヨウナラ。と、次々と名家を乗っ取りステップアップ。遂に美濃国をも乗っとり、美濃国に君臨するまでになります。
合戦においては、力より頭脳を使う派だったようで、加納口の合戦を見てもわかるように、敵にやりたい放題させてスキを伺い、敵がスキを見せた瞬間に徹底的に敵を壊滅させていますね。一方、領地の統括では残虐な刑罰をしてみんなに恐れられたといった説もありますが、その一方で『楽市楽座』を実施したりして商業、産業の育成に力を注いでいます。当代屈指の文化人でもあったようで、曲舞、謡曲、乱舞等の遊芸に通じ、当時流行り始めた「茶の湯」も嗜んじゃったりしてますね。大国である美濃国の国主にまでのし上がった人物ですので、悪評も有りますがかなり優れた人物だったことに間違いはないでしょう。

土岐頼芸

鷹を描かせたらかなりの腕前だったらしく、芸事に通じた【斉藤道三】の事を、超気に入って側近にしたのが、彼の運のツキだったのかもしれない…
仲の悪い主君であり兄でもある【土岐頼武】を、【斉藤道三】の言われるがままに追放し、【斉藤道三】の力で守護の座についた【土岐頼芸】は完全に【斉藤道三】の傀儡と化してしまう。彼がそのことに気が付いたときは既に手遅れ、愛妾まで【斉藤道三】に奪われ、美濃国から追放された彼は、尾張の【織田信秀】を頼り、『加納口の合戦』の火蓋が切って落とされる事になります。
余談ですが、【斉藤道三】に奪われた愛妾、名前を【深芳野】といい、後に【斉藤義龍】を生んでいます。この【斉藤義龍】ですが、父である【斉藤道三】と折り合いが悪く、原因は、深芳野が【土岐頼芸】の子を妊娠中に斉藤道三の側室になったという噂があり、それが確執を呼んだとの説があります。

まとめ

結局の所、加納口の合戦は織田家の大敗にて幕を閉じます。この直後にも【織田信秀】は、懲りずに美濃国に殴り込みをしますが自国の尾張国で内乱が勃発したために、【斉藤道三】と和議を結ぶことにします。この和睦が【織田信長】と【帰蝶】の婚姻のきっかけとなったんですね。美濃の国内に反対勢力を抱えていた【斉藤道三】にとっても、この和睦は願ったり叶ったりといったところではなかったのでしょうか。

 

 

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