1568年 将軍を擁立した織田信長であったが・・・

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長く続いた戦乱で、既に守護大名への統率力を失っていた将軍家に残された唯一無二の『力』とは・・・
遥か以前の【足利尊氏】以来の伝統に備わった『権威』のみである。

意外と『権威』を尊重していた諸大名

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足利将軍家が天下に覇を称えてから幾星霜。『応仁の乱』以降は全くと云ってよいほど機能しなくなった【足利将軍家】だが、【将軍家】が持つ『権威』だけは、引き続き尊重されていたのである。その証拠に、諸大名は幕府から補任された役職を大いに尊重したのである。


しかし、その『権威主義』を逆手に取る大名が現れ、上洛を果たすのである。その大名とは【織田信長】その人であります。
彼にとって『権威』は床の間に鎮座していれば良いもの、床の間に飾る華の様な役割でしかなかったのかもしれない。

上洛を果たし【足利義昭】を擁立した【織田信長】

1568年7月、【織田信長】は【足利義昭】の長年の願いに応え、【足利義昭】を美濃の国内の『立政寺』に迎えます。
【織田信長】は【足利義昭】を奉じて、尾張・美濃・伊勢・三河等の大連合軍を率いて岐阜を出発、同年9月には南近江の【六角義賢】を攻め散らし入洛を果たし、
同年10月には【足利義昭】が目出度く『征夷大将軍』に就任。【織田信長】は【足利義昭】より、お礼に『副将軍』や『官領職』を勧められるのだが、これを丁重に辞退しました。まだまだ『権威主義』が高かったこの時代に【織田信長】は、何を思ったのでしょうか。『権威』の部下になりたくなかったのか、それとも自らが『権威』の象徴に収まろうと思ったのか・・・

盤石ではない『将軍家』は・・・

将軍家の『権威』は廃れてはいないが、『将軍家』と云えども盤石ではありません。違う『将軍』を擁立し、自らの手駒にしようと【足利義昭】を滅しようとする大名は虎視眈々と【足利義昭】を狙います。その証拠に1569年早々には、再起した【三好勢】に【足利義昭】は自身の居場所を囲まれピンチに陥ります。


このときも、【織田信長】は、【足利義昭】を救うために再度上洛を果たし、【三好勢】を蹴散らしています。【足利義昭】もとい【将軍家】は、このときも既に自力で【三好勢】を蹴散らす『力』は持ち合わせていなかったのです。【織田信長】は【足利義昭】に『権威の象徴』でしかないという立場を思い知らせ、【足利義昭】のために『二条御所』を造営しました。

ウマが合わない【織田信長】と【足利義昭】

【織田信長】から見た【足利義昭】は・・・弱いのに勝手な事をする人間。『権威の象徴』だから大切に扱って『二条御所』まで造営してやったのだから、大人しく自分の云う事をきいて、余計な事はするな。

【足利義昭】から見た【織田信長】は・・・片田舎の成り上がり大名め。『権威の象徴』である『官位』をくれてやろうとしたのに固辞した。ひょっとしたら【将軍家】を乗っ取ろうとしているのでは…。【織田信長】は自らの弟も滅した男である。油断は出来ない。

互いの思い違いか、それともウマが合わなかったのか、【織田信長】と【足利義昭】は上洛以降、どんどん険悪な仲になっていきます。


1569年10月、【織田信長】は、自分の裁量で独自に政務を取り仕切る【足利義昭】に怒り本拠地に帰国してしまいます。
翌1570年1月、怒りの収まらない【織田信長】は『殿中の掟』という五か条の諌状を【足利義昭】に送り付けます。【足利義昭】は、表向き承認の署名をして、怒り心頭の【織田信長】に『官位』を勧めて誤魔化そうとしたのですが、【織田信長】は勿論『官位』を辞退します。

そして来る1572年9月、尚も続く【足利義昭】の独断専行に激怒した【織田信長】は『意見十七ヵ条』を【足利義昭】に叩きつけます。
翌1573年2月、既にお互いの仲は修復不可能な程に溝は深まってしまい、【足利義昭】は、打倒【織田信長】を掲げて、【浅井氏】、【朝倉氏】、【武田氏】、【本願寺氏】と密約を交わし、【織田信長】包囲網とも云うべき外交謀略を計り【織田信長】を苦しめようとするのです。
【織田信長】包囲網が完成した同年3月、【足利義昭】は【織田信長】の人質を退けて絶交を表明。

ここに『権威の象徴』である【将軍家】と歴史上の『麒麟児』との戦いの火蓋が切って落とされたのである。

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