なぜ織田信長は上洛を果たす事が出来たのか
周囲の列強勢力を差し置いて京への上洛を果たした【織田信長】彼は、なぜ上洛を果たす事が出来たのでしょうか?
逆に、京の周辺に本拠地を置く諸大名は軍事的に可能だったはずなのに、なぜ京への上洛が出来なかったのでしょうか?
他の大名は京への上洛にネックがあった
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例えば、当時は精強な騎馬軍団を保有していた【武田信玄】。立派な治世構想を持っていた彼ですが、【上杉謙信】の領土と隣接していた事もあって睨み合いが続き、京への上洛を目指したのは年老いた晩年になってからです。京への上洛途中で志半ばに倒れたのは有名な話ですね。
『瀬田の唐橋に武田の軍旗を掲げよ』
有名な遺言を重臣に残し、【武田信玄】は志半ばで陣没します。余談ではありますが、2007年に山梨市観光協会、大津市や瀬田川流域観光協会のメンバーが強力して、瀬田唐橋に武田の軍旗20本がかかりました。【武田信玄】の遺言は約430年の時を経て叶えられた訳ですね。
話が逸れましたが、【武田信玄】と隣接した領土を持った【上杉謙信】も軍神と呼ばれるだけあって、滅法戦上手でした。軍事的にも彼なら上洛が可能だったのではないでしょうか?
しかしながら、【上杉謙信】は助けを求められると放っておけない性格だった様で、自国の雪が解けると始終に東奔西走して各地の戦に明け暮れていました。
遠く中国地方で力を蓄えていた毛利氏は、とにかく京への道のりが遠い。物理的な負担も大きいですし、如何せん京が遠すぎたか、遠く離れれば心も離れてしまうものですね。腰が重くなったのでしょう。
最後に小京都と呼ばれ、将軍の【足利義昭】が頼みにし、万策尽くしたのに腰が重く動かなかった【朝倉義景】は性格上に問題があったのかもしれません。立地的にも京の近くで当時は大きな勢力を保持していたにも関わらず、リスクをとるより現状維持に甘んじたのでしょうか。
特にネックが無かった織田信長
他の大名が上洛に対して何かしらネックを抱えていた時に、【織田信長】には、上洛するにあたって特にネックは無かったのです。地理的にも近江を跨ぐだけですし、近江を本拠地とした【浅井長政】には、自身の妹を嫁がせています。
当時の京は、朝廷・幕府がある権威の象徴であり、政治の中心なのはもちろんの事、産業や文化の中心地でもありました。
金・物・人材・娯楽・教養・・・
当時の最先端のモノが京には何でも揃っていたのです。
戦国大名なら、誰しもが憧れる京に、将軍を擁して入った【織田信長】は、当時は実際に濃尾地方を中心に平定しただけの大名でしたが、上洛した事によって
『天下布武』
の意思表示をしたために、日本の数多くの大名をハッキリと敵に回した事になります。
織田信長上洛後・・・
上洛後の【織田信長】は、恩を売ったはずの将軍【足利義昭】との確執が仇となって、【足利義昭】の内意を受けた近隣大名に大義名分の元に『信長包囲網』を敷かれ長い間苦しめられます。さしずめ『出る杭は打たれる』のことわざ通りになってしまいました。流石の【織田信長】も上洛して、ここまで騒動になるとは思っていなかったのではないでしょうか。
1568年、【織田信長】35歳。意気揚々と入京。軍の規律も厳しく、略奪乱暴も無く、京の治安を取り締まり、将軍に【足利義昭】を就け、多大な贈り物をする。
しかし・・・
人間の欲は果てしない。権力を持つと歯止めが効かなくなってしまう。天皇や将軍の下の地位に不満を持ったのか、はたまた自分が一番と思ったのか、時の流れがそうしたのか・・・
1573年に【織田信長】は将軍【足利義昭】を京から追放し、【天皇】が行ってきた『改元』を自らの意思で実施し、年号が『元亀』から『天正』へと変わるのです。
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