1556年 長良川の合戦 斉藤道三VS斉藤義龍 まさかの親子対決!
1554年に【斉藤道三】は己の長男である【斉藤義龍】に家督を譲ります。
が、
親子仲は超悪く、2年後に【斉藤義龍】は父である【斉藤道三】を倒そうと挙兵します。娘婿である【織田信長】を高く評価していた【斉藤道三】は、援軍をくれたら美濃国を譲りますよってな書状まで送ったとか。しかし、【織田信長】が援軍に駆けつけたときには、既に雌雄は決していました。戦国時代を代表する梟雄は、最後はあっけなく息子の手にかかりました。因果応報と云うべきなのか、それとも、それが戦国時代の掟なのか、【斉藤道三】の最後は一抹の哀愁すら漂います。
親子の深い確執
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【斉藤義龍】の母親は【深芳野】といい、元は【土岐頼芸】の愛妾でした。そんな【深芳野】を【斉藤道三】が奪ったのです。
ともかく、【斉藤義龍】が生まれたのは、【深芳野】が【斉藤道三】の妻となってからです。【斉藤義龍】の父親は【斉藤道三】なのか【土岐頼芸】なのか?それが親子の深い確執でありました。【斉藤道三】は、長男の【斉藤義龍】よりも、次男の【斉藤龍重】や三男の【斉藤龍定】を可愛がりました。美濃国内の安定のために一度は長男である【斉藤義龍】に家督を譲った【斉藤道三】でありましたが、いずれは弟に継がせようと考えていたらしく、【斉藤義龍】は病気と称して弟の【斉藤龍重】と【斉藤龍定】を呼び出して暗殺。この暗殺劇が発端となり、長良川の戦いの火蓋が切って落とされます。
後戻り出来ない親子の戦いに
1555年、【斉藤義龍】は【斉藤道三】討伐を大義に掲げ挙兵します。【斉藤義龍】は【土岐頼芸】の落胤という噂が浸透していたためか、その噂を利用したのか、【土岐頼芸】の血筋ということで【斉藤義龍】の元には二万近くの兵が集結。一方、主家乗っ取りの下剋上体現者の【斉藤道三】の元に集結した兵は三千にも満たなかったと言われています。
圧倒的な戦力差の中、長良川を挟んでの合戦で【斉藤道三】は大敗を喫し、北野城に退却し態勢を立て直そうとしました。【斉藤道三】は、このときには既に敗れる事を覚悟しており、【織田信長】に美濃国の譲り状をしたためたといいます。
【斉藤道三】の娘婿でもある【織田信長】は、【斉藤道三】の援軍に駆けつけましたが、【斉藤義龍】はバカじゃありません。織田の援軍が来るのを見越して、【織田伊勢守】を調略し、【織田信長】の移動中に、彼の本拠地である清州城を襲わせたのです。そのために、【織田信長】は自国に引き帰さざるおえませんでした。
翌年の1556年、【斉藤義龍】と【斉藤道三】は再び長良川を挟んで対陣したのですが、結局【斉藤道三】は敗れ去りました。
【斉藤道三】は、【斉藤義龍】の戦いぶりに「さすが我が子よ」と用兵術を褒めたとも、【織田信長】への美濃国を譲る書状を送ったのを後悔したとも云われています。
我が長男を廃嫡しようとした己を自嘲したのか、余りの優秀振りに、流石我が子よ。という親バカか・・・
老いた梟雄、戦国時代の下剋上体現者の胸中はどうだったのだろうか。
【斉藤義龍】にしても、実父の仇を討ったのか、正真正銘の実父を討ってしまったのか・・・
血の愛憎が生んだ悲劇。
ともあれ、この戦いにより、8年間続いた斉藤家と織田家の同盟関係は無くなり、以後【織田信長】は、何かと美濃国を狙って侵攻をします。
活躍した人
長良川の戦いでの主役級は【斉藤義龍】ですね。父の【斉藤道三】程、メジャーではなく、早世してしまった彼ですが、戦国を代表する梟雄の父【斉藤道三】を倒しただけあって、とても優秀な人間であり、軍略家だったのは間違いありません。
斉藤義龍
なんと身長が六尺五寸(約195㎝)という大男だっと云われています。馬に乗ったら足が地面に付きそうだったとか。父である【斉藤道三】からは、ウドの大木の様に見えたのか!?それとも【土岐頼芸】の面影でも見えたのか!?何故か疎まれ、嫌われます。しかしながら、叛旗を翻した途端に武将としての器量を父である【斉藤道三】に見せつけます。そして長良川の戦いの5年後、1561年に死去。一説にはハンセン氏病を患っていたとか。
まとめ
親子の確執からの国盗り合戦まで展開した長良川の戦いだったのですが、とてつも無い戦力差が出てしまっていますね。これは、果たして【斉藤道三】が梟雄や主君を追い出して国を乗っ取ったという悪評から来た戦力差なのでしょうか?
現代もですが、当時も合戦を行うには『大義名分』が必要だったようですね。【斉藤義龍】は、その大義名分を上手く活用して、父【斉藤道三】を打ち破ったとも言えます。長男の【斉藤義龍】に打ち取られた、父の【斉藤道三】の胸中は、今となっては計り知れませんが、どのようなものだったのでしょうかね。。。
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