居合道の流派【番外編】直心影流薙刀術

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居合道で一番強い流派は?
最強の剣豪は?
良く論じられるコトですが、居合道に限って言えば、自己鍛錬性の強い武道なので、どこの流派がどうこうってのは無いです。どの流派も個性があり、そもそもは体裁き(合理的な体の使い方)によって業を繰り出しますので、逆を言うと理にかなってない流派なんて無いんですね。特に古流を呼ばれる流派は最たるものです。剣豪もしかりで、昔は真剣での勝負ですし、時代の違いもあります。簡単に誰々が最強なんてことは言いきれません。

さて、今回は番外編として、生涯でたった1回しか負けた事が無い人物についてです。あなたは誰を思い浮かべますか・・・?答えはきっと、あなたにとって意外な人物です。

生涯一敗の人物とは?

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生涯一敗の剣豪の尊名は【園部秀雄(そのべひでお)】です。明治・大正・昭和と激動の時代を生き抜いた生涯一敗の女性剣士です。

名前が【秀雄】って、明らかに男性名ですよね。この【秀雄】というのは武道上の名前であり、本名は【たりた】です。
では、彼女の生涯を少し覗かせて貰いましょう。

流派は?

直心影流薙刀術です。【園部秀雄】氏は第十五世宗家ですね。直心影流薙刀術はあくまでも薙刀の流派で、有名な直心影流剣術と直接の関係は無いです。直心影流剣術と柳影流薙刀術を学んだ【佐竹義文】(佐竹鑑柳斎)が、明治時代になって『直心柳影流』という流派を開いたのが始まりですが、いつのまにか『柳』が抜けて、『直心影流薙刀術』となりました。
【園部秀雄】は、元々明治3年(1870年)に仙台藩お馬回り役の【日下陽三郎】の六女として生まれました。名前は【たりた】と言います。名前の由来は、跡継ぎの誕生を熱望していた父親が、「もう女は足りた」といった意味で付けたとの説があります。現代でこんなコト言ったら総スカンでニュースになりそうですが、何分明治時代ですから。ノークレーム!

たりたと直心影流薙刀術の出会い

たりた】が生まれた明治3年は廃藩置県により、武士階級は没落の一途を辿っていました。武士は生活のために、自らの子供を下働きに出したりして、生活していたのです。【たりた】が生まれた日下家も例外ではありません。【たりた】も幼少の頃から下働きに出され、彼女は16歳の時(明治19年・1886年)に、当時住んでいた古川町に【佐竹鑑柳斎】一行がやってきて、撃剣興行を行いました。【たりた】はそれに感動し、父親の激しい反対を押し切って佐竹一行と行動を共にするのです。
んで、そのまま【佐竹鑑柳斎】に弟子入りした【たりた】ですが、炊事、掃除、洗濯と多くの雑用をしながら、合間をみては薙刀の技を伝授され、どんなに忙しくとも毎朝晩500回(計1,000回)の素振りは欠かさなかったとの事。半年後には見事に試合に出る様になって、美人の花形剣士として名を馳せました。

そして、明治21年(1888年)10月、19歳のときに直心影流薙刀術の印可を与えられ、以降は【日下秀雄】と名乗るようになります。

無敗伝説の始まり

直心影流薙刀術の印可をもらった【日下秀雄】は、自分を負かした者には「大賞品を進呈する」と言っうたい、対戦相手を募りました。しかも、対戦相手は「流儀・得物を問わず」とうたいました。簡単に言うと『異種格闘戦』ですよ。地元の剣客はこぞって挑戦しましたが【日下秀雄】は、これを次々と破ります。

明治32年(1899年)には、【渡辺昇】とも戦っています。【渡辺昇】は、幕末期に練兵館の塾頭を務めた人物で、京都では何度も人を斬り、かの有名な新選組にも恐れられたと言われる剣豪です。しかし、彼も秀雄の薙刀さばきに圧倒されて途中で試合を放棄しました。このとき秀雄29歳、渡辺昇は61歳でした。

記録に残る敗北

【日下秀雄】にも敗北を喫する日がやってきました。その時は明治34年(1901年)師の仇を打つべく秀雄に挑戦した【渡辺昇】の秘蔵弟子の【堀田捨次郎】に敗れました。このとき秀雄31歳、堀田捨次郎19歳でした。

しかし・・・後年の昭和30年(1955年)に読売新聞の取材に対して「あたくしが堀田さんに負けたというのは間違いです」とも語っています。

結構波乱万丈な『たりた』の人生

このように、本名【日下たりた】ですが、中々波乱万丈な人生を送っています。彼女は明治24年(1891年)に同じ撃剣会にいた剣術家の【吉岡五三郎】と、最初の結婚をし、娘をもうけてますが夫の吉岡五三郎と死別しており、夫の死後は、幼子を連れて巡業を続けていくのは困難として、娘を養女に出しています。
明治29年(1896年)には直心影流薙刀術宗家を伝承し、同年に『直猶心流剣術・鎖鎌術第2代宗家』の【園部正利】と再婚して、以降は【園部秀雄】と名乗りました。明治32年(1899年)に【渡辺昇】と対戦して以降は、夫の運営する道場で薙刀術を教える傍ら『姫路師範学校』や『大阪女子師範学校』で薙刀教師を務めました。
大正7年(1918年)には上京し『東京成蹊女子学院』、『実践女学校』、『女子学習院常磐会』、『女子商業学校』、『二階堂塾』などで薙刀を教えることになった。こののちに、彼女は学習院常磐会の嘱託となり竹田宮、北白川宮、閑院宮妃殿下をはじめ各宮家にも教授しています。
大正15年(1926年)には、大日本武徳会から薙刀術範士(武道の称号の最高位)を授与されています。後の昭和11年(1936年)には薙刀術の道場である『修徳館』を開きました。

そして・・・昭和36年(1963年)の9月19日、『園部秀雄』はその波乱に満ちた生涯を閉じました。享年93歳。

まとめ

生涯一敗のほぼ無敵の女薙刀剣士『園部秀雄』の人生は、波乱に満ちた人生だったことでしょう。幼少期は父親の馬を勝手に乗り回すといった活発な少女だったそうです。最初の夫とも死別し、娘を養女に出すことも辛かったはずです。しかし、彼女は薙刀術に命を懸け、昭和37年(1963年)には紫綬褒章も授かっています。
薙刀の権化とも云うべき彼女ですが、弟子には『武道の生活化』を説いており、「四六時中の生活、炊事、洗濯からあらゆる仕事が薙刀道の実践で、生活そのものを相手と思って修練することである」と伝えています。

彼女自身も、どれだけ忙しくとも毎日の掃除は欠かさずに、雑巾はおろしたての様にキレイなものを使用していたと伝わっています。

古臭い言い方になるかもしれませんが、健全な精神と健全な体にこそ、健全な魂が宿るのかもしれませんね。

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