1560~1567年 美濃の国をかけた戦い
1556年に長良川の合戦で【斉藤道三】の援軍として駆けつけたのが【織田信長】の最初の美濃の国への出兵です。長良川の合戦で【斉藤道三】が【斉藤義龍】に敗れてからは、舅の仇と思ったかどうかはわかりませんが、【織田信長】は美濃の国に度々出兵しています。美濃の国は、肥沃な濃尾平野を持つ豊かな国でもあります。尾張の国で海上交易をベースに持つ【織田信長】は、米が多く摂れる肥沃な濃尾平野は魅力的だったに違いありません。【織田信長】は美濃の国を治める事が出来れば、海上交易で得た【お金】に濃尾平野の【米】、資金に食料を手中に出来れば、更なる発展が見込めるからでしょう。しかし、美濃の国を治めるのは、父である【斉藤道三】をも討取った【斉藤義龍】であります。【斉藤義龍】もかなりの戦上手。しかも、父【斉藤道三】とは違って、家臣の信頼も厚い有能な人物です。さて【織田信長】と彼の父の【織田信秀】親子二代の宿願は叶える事が出来るのでしょうか?
父を打ち破った男の急死
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父の【斉藤道三】を打ち破った戦上手の【斉藤義龍】彼は戦上手なだけでなく、智謀も兼ね備えた名将でした。【斉藤道三】の敵討ちの名目で、度々、美濃の国に侵攻してきた【織田信長】を何度も退けています。【斉藤義龍】は、【織田信長】が桶狭間の合戦で奔走しているスキに、【織田信長】の親類の【織田信清】を離反させたりもしています。この【織田信清】の離反、尾張の国内に多くの支城を持った彼の離反は、【織田信長】を大いに悩ませます。それだけ【斉藤義龍】は智謀にも優れた名将だったのです。
しかし、その【斉藤義龍】が1561年に急死します。死因は持病が悪化しての急死とも、彼は父である【斉藤道三】を敗死させたので、その祟りとも・・・。祟りはともかく、持病が何であったか定かではありませんが一説によれば【斉藤義龍】はハンセン氏病を患っていたとされる説があります。
【斉藤義龍】享年35歳。彼の死後は、彼の嫡男である【斉藤龍興】が14歳という若さで跡を継ぎます。
美濃の国内は、名将でもある当主の急死に混乱します。その混乱に乗じて【織田信長】は、またしても、美濃の国への侵攻を始めるのです。
当主の急死に乗じて、美濃の国に殴り込みをかけた【織田信長】は、戦況を有利に進めながら『墨俣砦』を制圧しますが、【斉藤龍興】も、斉藤家筆頭家老の【長井道利】を援軍に送り込み、彼が獅子奮迅の善戦をしたために【織田信長】は一度は退却の憂き目を見ますが・・・。
若き当主は家臣団をまとめきれず・・・
父である名将【斉藤義龍】の跡を14歳の若さで継いだ【斉藤龍興】でありますが、若すぎたのか、はたまた器量不足だったのか、それとも祖父【斉藤道三】の時代から続く家臣の流出のせいなのか・・・
残念ながら後世の評価は芳しくありません。【斉藤龍興】は父や祖父と比べると、確かに凡庸で、評判の悪い佞臣を重用したりもしています。
そんな【斉藤龍興】が美濃の国を治めて3年。1564年に有名な『稲葉山城乗っ取り事件』が起こります。
そう、【竹中重治(半兵衛)】のクーデター事件です。このクーデター事件で、斉藤家は内部分裂している事を世間に露呈してしまいます。【織田信長】が、このチャンスを逃すハズは有りません。
【織田信長】は、まず自分を裏切った『犬山城』の【織田信清】に攻め込み、『犬山城』を焼き討ち。【織田信清】を追放して尾張の国内を安定させる事に成功。更に【羽柴秀吉】、【丹羽長秀】らに美濃の国の諸城主の調略を命じ、一気に斉藤家の弱体化を画策します。
旧領安堵の形で美濃の国の諸城主は、次々と織田家に帰順、調略に応じない城は城下を焼き討ちにして、美濃の国の東側、東美濃を一気に手中にしました。
美濃の国の全てを手中に収めたい【織田信長】は、攻撃の手を緩めたりはしません。1566年には、有名な『墨俣城』が完成し、その翌年の1567年には【織田信長】の外交工作で、徳川家・浅井家・武田家による美濃の国の包囲網が完成。更に【羽柴秀吉】の謀略で、他国にも勇名を轟かせた斉藤家の家臣団である『美濃三人衆』が織田家に内応。西美濃も【織田信長】が手中に収めた事によって、美濃の国の中心であり、本拠の『稲葉山城』は孤立。【織田信長】の総攻撃の井ノ口総攻撃によって、遂に『稲葉山城』は陥落。【斉藤龍興】も他国に逃げ出します。
【織田信長】は1567年に、親子2代の悲願であった美濃の国を7年かかって手中に収めたのです。
まとめ
【織田信長】は、斉藤家の混乱に乗じた形で、美濃の国を7年掛かりで手中におさめます。美濃を手中に収めた【織田信長】は、居城を美濃の『稲葉山城』にします。その『稲葉山城』ですが、【織田信長】は、この『稲葉山城』を『岐阜城』と改名します。
『岐阜城』の名前の由来は【沢彦 宗恩】が【織田信長】に、中国での周の故事に倣って『岐山』・『岐陽』・『岐阜』と3つ候補を出して、岐阜が選ばれたとの説や、岐蘚川のほとりの城だから『岐阜城』にしたとも伝わります。
とにかく、この美濃の国の『岐阜城』は、【織田信長】の上洛の拠点として栄えて行くのです。
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